聖書と信仰、こぼれ話

1.
      「聖書と信仰」 というテーマは、キリスト教について、しかもそれを自らクリスチャンであるという立場と責任において語ろうとするとき、十分に正当なテーマだと思います。
      しかし、私という一人の人間がそこで救いを受けて歩んでいる 「キリスト教」 は、決して 「書物の宗教」 ではありません。 そうではなくて、神がキリストによって語ってくださった 「出来事としての福音」 による宗教なのです。
      従来、ユダヤ教の律法主義と対比させて、キリストへの、あるいはキリストの福音への信仰を強調することは、特にプロテスタントの特徴であり、常識でありました。 ところが実際には、教会の現場での通俗的な理解では、聖書という書物が律法主義的に読まれ解釈されて、あたかも道徳の教科書、あるいは人間の行為の正邪を判定する(過去の裁判の)判例集ででもあるかのように扱われて来ました。
      いったい私たちの信仰にとって、「聖書」 とはどういうものなのでしょうか ?

2.
      信者でもそうでない人でも、たいてい 「聖書」 とは、キリストの教えが書かれている ・・・ ような ・・・ そんな書物であるかのように、漠然と思っているようです。 その延長で、キリスト以前の書である旧約聖書も、キリストの父である神の教えが書かれている ・・・・・、そしてそれらの教えを守ることがキリスト教であると考えられているようです。
      信者でもそうでない人でも、実際にはほとんど聖書を読んだことがなくて、ただ聖書の中の有名な話のいくつかを断片的に聞きかじって、“あれは禁じられている、これは罪である” などという戒律をそこから引き出したりしているものです。   2ちゃんねるのキリスト教スレでいろいろ発言している人たちの実態は、ほぼこのようなものなのではないでしょうか。 でも中には、少し真面目に聖書を学びたいと考えている人もいるかも知れません。 そのような人が、もし先入観なしに実際に聖書を読んでみると、なんとそれは “歴史の中での神の行為、およびその解釈” の書であることが分かって、びっくりするのです。

3.
      聖書を、“出来るだけその書かれた元来の姿のままに読む” という姿勢を、かなり早い時期から学び取ったことは、私にとってたいへん幸運なことだったと思っています。
      私が洗礼を受けたのは高校生のときでした。 当時の聖書はまだ 「文語訳」 で、読むのにも、そして内容を理解するにも、とても苦労したのを覚えています。 教会では、青年会などがときどき礼拝後に、聖書研究などと称して集まりを持っていました。 でもみんな、聖書から何を学ぶのかという基本が分かっていない。 “マタイ5:40 では、なぜ下着が先で、上着が後なのですか” などと、どうでもよいような質問が出て、集会の担当者がそれに対して、“次回までに調べておきます” などと大まじめで答える ・・・・・ せいぜいそんなものでした。
      大学に進んだ頃に、「口語訳聖書」 が発売されました。 私はそれを読んで、とてもよく内容が理解出来ることに驚きました。 まるでかつての 「文語訳聖書」 の、いわば注解書のような感じがしたものです。 それで、「文語訳」 と 「口語訳」 の二冊を机に並べて、比較しながら読み進めるということを、数年間続けたのです。 このやり方が、如何に実り多い学習方法であるかを、私はそこで存分に体験したように思います。
      ●小論集● にある ★聖書と言語★ 中の 「聖書を読む」 参照。

4.
      聖書やキリスト教に関する書籍は、現在の日本では掃いて捨てるほど多く出版されています。 高度に専門的な学術書から、毒にも薬にもならない無駄話、さらには非常に無責任な放言に至るまで、ありとあらゆる書籍が混在しているのです。
      至極当たり前の話なのですが、もし真面目に聖書を学びたい、キリスト教の本来のメッセージつまり福音を知りたいと思うなら、まず聖書そのものを本気になって読むことが第一です。
      ●小論集● にある ★聖書入門★ の中の 「6. ささやかな助言」 に、そのことが書いてあります。 その中で、私は 「よい書物に出会うためには、たくさん読んでみるしかありません。 そのようにして自分の選択眼を養うことは、信仰の成長にも有益です」 と書きました。
      私自身も、たくさんの苦労や失望を経て、当時ある一冊の本に出会うことが出来ました。 今はもう手元にはありませんが、たしか 「受難の七日間」 という題名だったと記憶しています。 その思い出を、ベネディクトXVI著 「ナザレのイエス-第二部-」 の紹介 で書きましたので、ご覧になってください。 この書籍は、日本語訳が今も新品または古書で入手可能です。

5.
      「すでに久しい以前から近代人は、 聖書が非科学的な古代の文書であって、今ではそのまま文字通りには信じることが出来ないと主張して 来ました。」 (●聖書講義(2015年)● /2015-3/ 5.主の再臨とその象徴的表現 より)
      私が神学校へ行く決意をする以前、まだ一般大学にいた頃、学内のクリスチャン仲間数名と一緒に聖書の勉強会みたいなものをしていました。 教授の中にも一人、クリスチャンの方がいて参加してくださっていましたが、学生たちからいろいろ疑問が出されていくうちに、ある日、次のように発言されたのです。  「聖書に書かれていることを、皆さん、そのまま文字通りに信じている分けではないでしょ ? 」
      私は、驚きで息が詰まりそうになりました。 当時の私はまだ、聖書の “象徴的、黙示文学的、あるいは神話的表現” などについての知識を持っていませんでしたが、それでも ・・・・・ 「ええっ ? 聖書はそのまま信じなくてもいいの ? 」
      夏休みで帰郷したとき、私は母教会に行って、私に洗礼を授けてくれた牧師を訪ねました。  「先生、主の祈りで “御国を来たらせ給え” って祈りますが、現代の教会ではキリストの再臨をそのままには信じていないのですか ? 」
      私の所属していた日本基督教団の信仰告白は、使徒信条に前文を付けた形になってるのですが、その前文の末尾を指して牧師は私に答えてくれました。  「きみ〜い、信仰告白には “主の再び来たりたまふを待ち望む” って書いてあるよ。」
      ずっと後になって、やがて理解したことは、それが個人の私的な(独りよがりの)信仰ではなくて、信条の第三項に告白されている(聖霊の御業である)聖なる公同の教会の信仰なのだということです。 その日に、この牧師がくれたひとことの答えは、私の心をぐさりと突き刺すものでした。

6.
      すでに一時代も二時代も昔、20世紀前半の日本の教会では、聖書の記述と自然科学とは両立しないというような議論が盛んであったようです。 乙女マリアの処女懐胎は、科学的にあり得ることだと言ってみたり、その反対にあれは作り話に過ぎないと言ってみたり、そんな論争本が信者の間で読まれていました。
      世界は神によって七日間で創造されたことを信じないのは罪であるとか、学校で進化論を教えてはならないなどという主張は、今なお、いや現代ますます、アメリカで保守派と呼ばれる人々の間で盛んです。 つい最近も南部バプテスト系の教会で、礼拝中に毒蛇に咬まれ、あくまで治療を拒否したために死んだ人の話がニュースで報じられていました。  マルコ16:18 の 「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、・・・ 」 という記述を真剣に信じることが “信仰” だと考えられているのです。
      「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)  この 「キリストの言葉」 とは、使徒たちを通して教会に伝えられた福音、すなわち 「信仰の言葉」(ロマ10:8ff) に他なりません。

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