私の神学校時代の話

1.
      神学校に入って間もなく、私は新約学の緒論の講義で、逐語霊感説(verbal inspiration) というものの存在と、その誤りに関する解説を学びました。
      「神のことば」 とは、イエス・キリストにおいて出来事となった福音であって、それは歴史において啓示された歴史的事実なのです。 だから歴史的・批評的研究によって正しく聖書本文を読み、そこに伝えられている使徒たちの福音証言を的確に把握することは、正当な聖書の読み方であるということが出来ます。
      そして私は、教会が使徒時代からずっと信じて来た神が、「イエス・キリストにおける神」(ヘブ1:2)、「キリストの福音によって御自身を啓示し給うた神」(IIコリ5:18f) であることを、理解するようになって行きました。
      ●小論集● の中の ★キリストの福音★ 参照。
      そして、少しずつですが本格的な神学書を読むようになって行きました。 まだ学部在学中で、ヘブライ語も習っていなかった頃に、やはり 「聖書の中のあれこれの言葉への偏見や先入観を捨てて、“聖書が語っているままに読む” という訓練」 を与えてくれたのが、次の書物でした。
      Johs. Pedersen : “ISRAEL - Its life and culture -”
      W. F. Albright : “From the Stone Age to Christianity”
      後者は、H.26 に日本語訳が 「石器時代からキリスト教まで」 として刊行されましたので、現在入手可能です。
      ●聖書講義(2015年)● の中の 「2.19世紀の名残/教導職と信徒のキリスト教理解」 でも触れましたが ・・・・・、 「聖書の中で最も古いと思われる資料は最も原始的であり、後の時代のものになるに従って進歩して来る」 という誤った価値判断に基づいて、読者が勝手に (現代的感覚で) 聖書を再解釈してしまうことほど危険なことはないのです。
← 東京神学大学

2.
      聖書の注解書を選ぶ基準として、「君たちは critical(批評的) なものを持たなければいけない」 と、教授に指導されたのはその頃のことです。
      当時の外国人宣教師の多くが母国から携えて来ていて、それまでに教会で私が見せてもらったものは、いわゆる devotional(主観的・敬虔的) な傾向の聖書解説や説教例集ばかりでした。 それは日本の教会で、日曜学校の教師用に提供されている、信徒奉仕者用の説教教材のような、すぐ実用になる便利な参考書類だったのを覚えています。
      ちょうど新しく出版されつつあった The Interpreter's Bible 12巻を、順に入手し始めたのが私の最初の注解書購入でした。 書物の紙質や装丁の豪華さに、アメリカの豊かさを感じたものです。 上段に英訳本文二種、中段に 「注解(exegesis)」、そして下段に 「講解(exposition)」 という構成になっていて、本当に必要なのは 「注解」 だけなので、貧乏学生にとってはもったいない買い物でした。
      そうこうしているうちに、有名な Peake's Commentary on the Bible の新版(1962) が英国で出版されたというニュースが入って来ました。 これは一巻物の注解書で、その編集責任者が Matthew Black と H.H.Rowley だというのです。 一巻物なら便利かも知れないし、編集者も有名な人たちなので、買っておいて損はなかろうと思いました。
      買ってみてびっくりしたのは、内容よりも先ずコストパーフォーマンスの高さでした。 用紙が薄くて、印字が小さくて、ほぼ1000ページの本文に索引が付いているのに一冊に収まっていて、しかも値段が安い。  ヤッターッ !! と思いました。アメリカの贅沢さと、イギリスの質素さの違いに、とても感激したものです。
      読み始めてすぐに、現代の聖書批評学(Biblical Criticism) の成果を見事に示す、その学的レベルの高さにとても満足しました。 いわゆる homiletic(説教用) とか devotional(主観的・敬虔的) ということを直接の目的としない、極めて優れた critical(批評的) な注解書に出会うことが出来たのです。
      上記の Peake's Commentary on the Bible は、その後2001年にペーパーバックのものが新しく発売されて、今世紀の初めまでずっと発行が続けられていたようです。
      ここまでの話でお分かりになったと思いますが、これらの注解書はみな英語のもので、ギリシア語やヘブライ語を全く知らなくても読めるのです。 私はこのほかにも Moffatt の Commentary などには、その後もずいぶんお世話になりました。
      やがて私は大学院で旧約聖書神学を専攻することになるのですが、自分の能力と将来の説教者としての仕事のことを思って、比較的楽に読めるような中程度の注解書を買うようになって行きます。 ですから今でも、ICC は一冊だけ、ATD も二冊ぐらいしか持っていません。 ヨハネ福音書は Barrett で、マルコ福音書は Cranfield で、といった具合です。  ICC のような本格的な注解書をまともに読みこなすには、たいへんな労力が要りますから、背伸びはしないことにしたのです。

3.
      すでに学部時代に、旧約関係の神学書を少しずつ読んでいました。  G.von Rat とか Martin Noth などにも食指をのばし始めて ・・・・・。
      しかし、正式に旧約専攻になって初めて研究室で講読に指定されたのが、E.Wright の Biblical Archaeology(聖書考古学) でした。 私はそこで、聖書神学に取り組む自分の生涯の姿勢というものを、決定的に方向付けられたと思っています。 それは、キリスト教において神を知ることは、人間の歴史の中で現実に生起した諸事件との関連においてのことであるという理解です。
      ですから聖書神学を学ぶことは、歴史を真剣に取り上げていくことと切っても切れない関係にあるのです。 考古学の目的は、過去における人間の生活を理解することです。 その考古学の一つの特殊部門である 「聖書考古学」 にとって、中心的関心が聖書の理解とその解明にあることは、言うまでもありません。
      E.Wright は、かつてエルサレムにある アメリカ東洋研究所 で私の恩師 左近義慈 と机を並べていた W.F.Arbright の弟子で、「聖書考古学」 という名称の名付親とされている人です。
      左近教授は、第二次世界大戦が勃発したために、Albright の許での研究を中断して帰国した、悲運の旧約学者でありました。 あるとき私が、Biblical Archaeology のカバーに印刷されている E.Wright の写真を指して、「ハンサムな人ですね」 と言ったところ、左近教授が 「それは若いときの写真だよ」 と ・・・・・。  ちょっと、ライバル意識が口をついて出てしまったような、微笑ましい思い出があります。

← 定年退職後、70歳ごろの左近教授ご夫妻

4.
      ここで 「聖書考古学」 のことに言及しましたので、21世紀の皆さんのために、最近の参考文献を二冊、紹介しておきます。

■ “発掘された聖書” (I.フィンケルシュタイン/N.A.シルバーマン 共著/教文館 2009年)
      2002年出版の書籍の翻訳で、学界の主流からはかなり外れた主張をしているので注意が必要ですが、その学問的姿勢からは多くを学ぶことが出来ます。
■ “ANCIENT ISRAEL 第三版” (Edited by Hershel Shanks) (2010年 Biblical Archaeology Society)
      現代の聖書考古学の標準的な立場に立った、穏健で分かり易い紹介本です。

5.
      レベルの高い低いは別として、だれでも神学を学ぶ場合にはその過程で、どこかに自分の立ち位置を見つけ出すのが普通です。 つまり、ある神学者、ある神学書、またそれらのある部分に、自分の神学的拠り所のようなものを見つけ出して、そこから過去、現在、そして将来のいろいろな学説を取捨選択したり評価したりするようになります。
      そのような自分なりの 「神学的拠り所」 を持たない人は、いくら勉強してもただの雑学的、乱読的物知りになるだけで、決して 「自分の神学的立場」 というものを持つことが出来ません。 それこそ、やれ福音派だ、やれリベラルだ、やれ教条的だなどとレッテルを貼っているだけで、自分で 「神学する」 人にはなれないのです。
      私も、神学らしきものを多少でも嗜むようになって、もうすでに50年以上になりますから、当然自分の神学的拠り所とする神学者や神学書の多くは、古いものが多くなります。 決して時間が停止して、その古い神学から少しも成長しないのではなくて、常に新しいものにも目を向けていますが、私は最近神学を始めたばかりの若い人たちよりも、自分の判断がずっとしっかりした根を持って安定していると自負しています。
      大学院の卒業論文は、旧約神学のものでしたが、キリスト教の聖書の神学を学ぶには、当然、新約神学にも造詣が深くなければなりません。
      私の新約神学の拠り所になった神学者は、ニューヨーク・ユニオン神学校で教えていた C.Grant と、英国・ノッティンガム大学で教授を勤めていた Alan Richardson という、非常に対照的な立場の二人でありました。 その後どんなに多くの神学書を読んだにしても、いつも私が繰り返し帰って行く神学の原点がそこにあります。

6.
      教義学 (Dogmatik) に関しては、私の時代に Karl Barth の影響を何らかの形で受けなかった神学生は、いないだろうと思います。 私にとっても、「信仰について何事かを語る」 という場合の道筋を教えてくれたのは、バルトでした。 そのほかにも P.T.Forsyth とか ・・・、もちろんルターやカルヴィンのものも、それなりにいろいろ読んだと思います。
      しかし、私の教義学の拠り所になったのは、なんと、もっと古い G.Aulen の "The Faith of the Christian Church" でありました。 彼はスウェーデンの神学者で、私が持っているのはその1973年版のペーパーバックですが、初版が出たのは1923年で、最後の改訂が1960年になされています。 彼の名は、"Christus Victor" という贖罪論の小冊子で有名ですから、ご存じの方も多いと思います。(佐藤敏夫訳の 「勝利者キリスト」 が、今でも古書で入手可能のようです)
      このように、決してそんなに有能でも、また多読でもない私のような者が、それでもずっと "神学の成果の利用者" として現役であり続けることが出来たのは、それぞれの分野の拠り所となる神学者と神学書を持ったからだったのです。

      私は、聖書神学を専門にして歩んで来た一人の老クリスチャンとして、すべての方々に忠告したいと思います。 聖書を日常的に聖書注解書を用いて読んでいない人、その著者たちへの尊敬の念を持って注解書に取り組まない人、つまり正しい意味での釈義を軽んじて自己流の解釈や主張だけをしているような人、そのような人に耳を貸してはいけません。
      キリスト者が 「福音の宣教」 に関わる 「何か」 を、もし語ることが出来るとすれば、それはその 「何か」 を 「何処から得て来なければならないかを聖書から教えられている場合だけ」 なのですから。

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