聖書を読むとは

1.
      聖書を読むということが、クリスチャン一人一人にとってとても大切であるという主張には、誰も反対しません。 それでは本当に、心からそう思っているのかというと、実はどうもあやふやなのです。 なぜかというと、大多数のクリスチャンたちが、実際にはほとんど聖書を読んでいないというのが事実だからです。
      その原因として、私は次の三つのことを考えています。
 (1) 聖書を読む、その読み方の指導を出来るような指導者や先輩信者が、ほとんどいない。
 (2) 聖書を読む目的が何なのかということを、誰も教えてくれない。
 (3) 司祭や牧師という礼拝やミサで説教をする教会の指導者たちさえもが、実際には聖書をどのように用い、そこから何を聞き取って語るべきかということについて、ほとんど手探り状態である。
      特にプロテスタントの教会では、「毎日一章ずつ読みましょう」 とか、もっと短い区切りを作って、「せめて毎日一区切りずつ」 などという指導が行われ、信者もそんなオマジナイみたいな読み方で自己満足していることが多いのです。 あなたは小説や雑誌を、そんな仕方で読んだりしますか ?  おかしいと思いませんか ?
      ●小論集● の中の ★聖書入門★ 参照。

2.
      聖書は、古代の書物です。 しかもその古代というのが、ほぼ一千年余もの永い時代にまたがっているので、歴史的・文化的にもいろいろ異なる時代背景を考慮しないと、その元来の意味を正しく読み取ることが出来ません。 このような古代の諸文書を、現代人である私たちに理解出来るようにしてくれるのが、聖書神学者や聖書翻訳者という専門家の仕事なのです。
      教会ではしばしば、信徒たちに聖書を学ばせようとして、いろいろな集まりや行事を工夫したり行ったりします。 するとみんなが、聖書の中のあの言葉この言葉を取り上げて、それぞれ自分の感想を述べたりすることが多いようです。 プロテスタント教会では、“証し” などと称して、信徒が聖書から受けた教訓や感激などを、一同に紹介することも、よく行われます。
      でも ・・・・・ それは、神のことばを聞いた、福音の慰めを受けた、救いの確信を得た、というのとは何か違うのではないかと ・・・・・、あなたは思ったことはありませんか ?
      聖書が自ら語っているメッセージを明確に聞き取るためには、翻訳された聖書のテキストを素直に読んで理解することこそが大切なのであって、自己流の解釈や評価、感想や意見などを皆で話し合っても、ほとんど役に立ちません。 聖書は私たちが読んで理解し、そこから “神のことば” を聞くための器であって、私たちが浅はかな意見や感想を述べ合って、どの程度現代の感覚や価値判断に合致するかを評価する(採点する)ような書物ではないのです。

3.
      旧・新約聖書は、神の救済の歴史をその民の “信仰の告白” あるいは “宣教” という形で語っている文書であります。 旧約のイスラエルにとっても新約の教会にとっても、その民の礼拝(あるいは祭)の中心主題はいつも、この救済史の叙述(つまり説教や信仰宣言、あるいは別の表現では記念)でありました。
      ですから聖書が、“自然科学の教科書” でも “特配員の報告” でもないという当たり前のことが、先ず明確にされなければなりません。 ヘロデ王が学者たちをベツレヘムへと送り出すと、東方で見た星が彼らに先立って進み、幼子イエスのいる場所の上に止まったと、マタ2:8f に書かれています。 これをあくまで実際に起こった奇跡的現象だと信じても、あるいはそんなことは実際には起こり得ないと主張してみても、どちらに転んでも、聖書から “神のことば” を正しく聞き取ることには何の関係もないのです。
      教会共同体がキリストの名によって集まるところ(マタ18:20)、すなわち礼拝(ミサ典礼)というものの、その中心主題は “神の救いの御業” です。 この “救済史における神の御業への信仰告白的宣教” を聞き取ることこそが、聖書を読む第一の目的であることを理解しましょう。
      ですから私たち信者が聖書を学ぶということは、“ある特定の歴史(救済史)を通して神が行われた救いの業” を、信仰と愛と感謝をもってたどることに他なりません。 私たちにとって、歴史こそが神の啓示の主要な舞台だからです。
      この “歴史を通しての神の救いの業” は、旧約聖書においてはイスラエルにより、新約聖書においては新しいイスラエルである教会による解釈に基づいて、記録されています。 それではこの、それぞれの時代の多くの出来事を理解し解釈して来た基準とは、何だったのでしょうか。 聖書を読むことにおける真に重要な第一の目的は、この解釈の基準を見出すことでなければなりません。
      ●聖書講義(2015年)● /2015-1/ 7.神の選び/(選ばれた)神の民 を参照。
4.
      初期のイスラエルは、彼らの父祖アブラハムに対する神の選びと約束(創12:2f)が、(1) 出エジプトとシナイにおける民族の形成、(2) 嗣業の地の取得、(3) ダビデ王国の成立、という三段階において実現したと理解しました。 そしてこの信仰基準を輪郭として、モーセ五書と申命記が編集され、それ以降の旧約の歴史はすべてこの光の下で解釈されたのです。
      原始教会は、この救済史における神の御業がイエス・キリストの出来事によって頂点に達し、現実になったと宣教しました。 今や新しいイスラエルである教会は主なるキリストの支配下にあって、最終的な勝利はその再臨において完成するのです。
      聖書の中では “神のことば” という用語が多く使われていますが、それは決して歴史の過去および将来におけるこのような “神の行為” から切り離しては理解出来ないものなのです。 なぜなら、聖書が述べている “神のことば” は、天地創造から終末の神の国到来に至る救済史(神の救いの御業の歴史)とは無関係な、独立した抽象的な真理のようなものではないからです。

5.
      礼拝における “説教” とは、このような意味での “神のことば” が確かに語られ、会衆がそれを聞き取るときにだけ、真に説教になります。
      ところが実際には、牧師や司祭の 「説教」 というものがせいぜいただの 「よいお話し」 であって、聖書が伝える使徒たちの宣教の継続とは何の関係もないというのが、多くの教会の偽らざる現実であります。 かつて原始教会が、どのように福音を理解し、信じ、宣教したかは、まるでそのままでは現代には通用しない古い時代の話だと、思い込んでいる節があるのです。
      聖書は、現代人の知恵で解釈することによって、そこから有用な教訓や教えを引き出すために用いるものだと、多くのクリスチャンが本気で考えています。 つまり聖書は神の言葉であるとか、聖書を通して神の言葉を聞くなどという表現は、ただの宗教用語に過ぎなくなっているのです。
      どうしてそんなことになってしまったのでしょう。  ●聖書講義(2015年)● (/2015-1/  2.19世紀の名残/教導職と信徒のキリスト教理解) で、その分析をしています。 ご参照ください。

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