啓示とはなにか

1.
      プロテスタントでは 「聖書のみ」 を、カトリックでは 「聖伝と聖書」 を、“神の啓示伝達の器” であると主張しています。 第二バチカン公会議の公文書の一つ “神の啓示に関する教義憲章” はそれを、「使徒たちから伝えられたこと」 と説明しました(第二章)。
      そしてこの表現こそは、啓示伝達の器の定義としては、プロテスタントとカトリックが共に承認することの出来るものなのです。
      今から80年ほど前の有名な講演で、カール・バルトは次のように述べました。
      「教会が啓示の中にその基礎を持っているのは、啓示を聞き、また見た人々の証しによってである。」 「われわれに出来るのは、ただ啓示の証しに基づいて、啓示を与えられ、受け入れ、承認することだけである。 この啓示の証しが教会を造り、保ち、 ・・・・・ 」
      使徒たちによって啓示が伝えられ、その使徒たちの証しを通して教会はキリストの福音を信じている、という基本的関係を明確に理解することは、今日すべてのキリスト者にとって喫緊の課題なのです。
      「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブ1:1f)
      「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。 すなわち、命の言について。 − − 」(Iヨハ1:1)

2.
      教会の教導職(司教と司祭、あるいは牧師と呼ばれる人々)の主要な、そして第一の任務は、信者に使徒たちの証しである啓示の内容を説き聞かせることです。 ミサにおける “説教” とは、このような意味での “神のことば” が確かに語られ、会衆がそれを聞き取るときにだけ、真に説教になります。
      先に挙げた “神の啓示に関する教義憲章” は、このような教える任務について述べた中で、次のように言っています。  「もちろん、この教導職は神のことばの上にあるものではなく、これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。」  そして、啓示に関しては、 「われわれの主イエス・キリストの栄えある再臨までは、もはやいかなる新しい公的啓示も期待すべきではない」 と述べています。 さらに、教会憲章の中でも教導職について、 「ただし、彼らは信仰の神的遺産に属するような新たな公の啓示を受けることはない」 と、念を押して述べています。
      原始教会が旧約聖書を自らの正典として受け入れたと言うとき、それは使徒たちがキリストの福音を宣教することの中で起こったのであって、決してキリストによる啓示とは別の、独立したもう一つの啓示として承認したのではありませんでした。 ( ●聖書講義(2015年)● /2015-2/ 13.正典としての聖書 を参照。)

3.
      ここで、言葉を整理してみます。
      まず “啓示” という言葉によって、教会は “使徒たちが伝えたこと”(神の啓示に関する教義憲章) を定義して来ました。 そしてこれを信者に教える場合には、“キリスト教の教理” “教会の教え” などと呼ぶのが普通でした。 そしてこの同じことを、より厳密に神学の対象として論じる場合には、“教義学(Dogmatics)” という名称を用いて来ました。
      これらの意味するところは同一であって、その対象と内容は “イエス・キリストの福音” であります。 ところが、神が御子イエス・キリスト(の受肉と受難、復活、昇天)によって語られた福音は、“神からの福音” であって、従って人間のいかなる説明によってもこれを完全に述べ尽くすことは出来ません。  “キリスト教の教理” というものは、ですから、神学に携わる人々や組織体としての教会による、その時代、その時々の状況によって左右される、“不完全な叙述の試み” にしか過ぎないのです。
      “聖書” とは別に、“正しい教会の教え” というものがあって、それを基準にすれば正しく聖書を理解出来ると思っている人は、単なる人間的企てとしての神学を “神のことば” と取り違えてしまっているのです。
      ●小論集● の中の ★聖書入門★ を参照。

4.
      “教義学(Dogmatics)” というのは、キリスト教神学の一部門でありますが、それは決して個々の神学者の私的な学問ではありません。 そうではなくて、“教義学(Dogmatics)” は常に “教会の責任において” 企てられる、 “教会のための” 神学であります。
      その課題は、教会にゆだねられているキリストの福音の宣教であって、それは教会の奉仕(神と隣人への)の一部、教会の典礼(説教と聖餐)の一部であると言うことが出来ます。
      ですから、“キリスト教の教理” は、決して人間的な思弁に由来するものではありません。 その叙述の試みには常に、旧約聖書と新約聖書によって語られているキリストの福音の規範的な啓示という始源があるのです。(カトリック教会はこれに聖伝を加える)
      原始教会が旧約聖書を自らの正典として受け入れたとき、そこにあったのは、救済史は教会を通して地上で続行する、つまりキリストの受肉からその再臨までの教会の時は、救済史の一部であるという認識です。 それ故に第二世紀の教会が新約聖書の正典を、そこには使徒に由来する文書のみを採用するという配慮をもって創ったとき、それは旧約聖書と合わせて一つの正典となったのであって、決して独自に新しい別の正典が誕生したのではありませんでした。

5.
      歴史の教会はこの啓示の中にその存在の基礎を持っています。 旧・新約聖書(と聖伝)を通しての救済史の認識は、啓示によって教会に知らされたものだからです。 この啓示の証人が使徒たちであり(ガラ1:11f)、私たち代々のキリスト者は使徒たちの証しを通して啓示を与えられ、啓示を受け入れるのです。 私たちにとって信仰とは、このような使徒たちが証しする “啓示に自発的に同意すること”(神の啓示に関する教義憲章 5) に他なりません。 ですから 「キリスト教の教理」 は、この啓示の釈義から由来しなければならず、さらにより良い釈義へと向かう企てであり続けるのです。 このような釈義において大切なことは、それが現在と過去の全教会を貫く聖徒の交わりの中でなされる、救済史における神学的奉仕であるという理解です。 もし誰かが、教会の伝統という遺産から逃れて、全く新しい真空の空間で独創的な教理を創作しようと企てるなら、 ・・・ それは 「神学」 という名に値しない、ただの 「余計なこと」(IIテサ3:11) にしか過ぎません。

6.
      学問というものは常に進歩し続けるもので、確かにキリスト教の 「教義学」 や 「聖書解釈学」 というものもその例外ではありません。 しかしこの学問領域では、部分的には過去との断絶や決定的転換等が何度もあるのは当然としても、むしろ全体としては伝統の中での進歩、伝統の積み上げを通しての進歩ということのほうが、遙かに大きな要素でありました。
      ですから、教会の歴史における過去の 「キリスト教の教理」 の表明の数々を深く学ぶという作業の上に、現代の 「教義学」 が成り立つのです。 もちろん教会の過去の神学的遺産には、信頼すべき神学もあれば、あまり信頼出来ない神学もあるのは当然です。 しかし、自然科学におけるように、それらは 100% か 0% か、白か黒かというものではない、ということを理解しなければなりません。
      上記の理解に資するものとして、近年の好著の一つを特にお勧めしたいと思います。
      “VATICAN II / Renewal within Tradition”
      第二バチカン公会議公文書 / 改訂公式訳 は こちら

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