聖書と説教の関係について

1.
      ここからは、しばらく私自身の体験に基づいてお話しをしてみます。

      先ず、私はこれまで神学を学ぶに当たってはいつも、学界で主流であるような学説に絞って、自分の学びを進めて来ました。 つまり背伸びをして一人前の神学者ぶるのではなくて、あくまでも “神学の成果の利用者” に徹して来たのです。 すでに神学校の学部時代に、いろいろな神学書を少しずつ読んでいましたが、やがて大学院で学ぶ頃には、自分の能力と将来の説教者としての仕事のことを思って、比較的楽に読めるような中程度のレベルの神学書を買うようになって行きます。
      その頃に私は、もう一つの実際的な問題に関心を持つようになって行きました。 それは、将来自分が一つの教会を担任するようになったとき、主日ごとに説教に使う聖書のテキストはどのようにして選んだらよいのかということです。 神学校で学ぶことというのは、実はほんの序の口、いわば入門的なことだけであって、実際に教会に遣わされてからが本当の勝負だからです。

2.
      牧師でも司祭でも、実際に教会を担任するようになると、べらぼうな程に忙しい日々の連続で、まともに書斎で勉強する暇などないような生活が始まります。
      それで神学校在学中に、何人かの教授や先輩から、初めの頃は 「連続講解説教」 をするのがよいと助言されました。 つまり一年二年するうちに、少なくとも注解書を一冊勉強することが出来るから、というのです。 また別の教授からは、せめて一年に一冊は神学書を、頑張って学ぶように努力しなさいと励まされました。
      つまりそれは本人の努力次第の、実に厳しい世界であって、実際には大部分の牧師や司祭は、神学を学ぶことからは離れてしまうのが現実の姿なのです。 そのようにして、本格的な神学の成果を神学書によって学んで自分の説教に取り入れるなどという能力を持つに至らずに、ほとんどの説教者はその生涯を閉じて行きます。

      牧師や司祭の無能を非難するのは簡単なことです。 しかし信徒は、それが “無い物ねだり” にしか過ぎないことを理解すべきです。 なぜなら彼らを生み出したのは、現在の貧弱なレベルの私たちの教会であって、鳶(とんび)が鷹(たか)を生んだりする筈はないからです。
      そうではなくて、信徒たち自身が各自の能力に応じて神学を学び、聖書を学んで、教会を造り上げる 「生きた石」(Iベト2:5)として用いられることこそが、現代の教会にとっては喫緊の課題なのです。

3.
      私はかなり早い時期から、教会暦とそれによる聖書日課に注目して、いろいろと参考資料を探し出して研究していました。 そして実際に、自分の説教にこの聖書日課表によるテキストを用い始めました。 私が利用したのは、1955年版のドイツ語の聖書の末尾にある日課表で、古くからの伝統的なペリコーペ(日課表)と、新しく作られたペリコーペが、並べて掲載されていました。
      教会暦についても、・・・ 当時も現在も同じですが ・・・ 満足出来るような解説書がほとんどなくて、全くの手探り状態であったことを覚えています。
      そうこうしているうちに全く偶然に、既に 1957年に翻訳発売されていた A.Nygren の 「神の福音」 という本に出会い、私はそれを入手して読んだのでした。 ニグレンはあの有名な 「アガペーとエロース」 の著者で、スエーデンのルター派の神学者だった人です。
      この 「神の福音」 という小著は、ニグレンがルンド教区の監督となったときにその教区民に宛てた牧会書簡で、その第四章で “説教における福音” という主題を取り上げています。 私が非常に多くの感銘を受けた章なので、その中からいくつかの文章を引用してみたいと思います。
      「われわれの神に対する奉仕が本質的には説教という形をとるのは偶然ではありません。 言葉の説教なくして礼拝はあり得ません。」
      「礼拝の意義は、神からの使信をもたらすことでありますから、説教の根底に聖句の特定の箇所がなければなりません。」
      「説教者は、自分の言葉や自分の思想を提供するのではなく、他のお方の使者として臨まなければなりません。」
      「彼の宣べ伝えんとする言は “わたしはかく言う、かく考える”、“これはかくかくの権威者の考えである” ・・・・・ というものであってはなりません。」
      「説教がかたく聖書のテキストに基礎をおく場合、宣べ伝えられんとする使信は “神の使信” であるということを意味しております。」

4.
      ニグレンは、説教の準備としての聖書釈義の重要性を述べた後に、しかし説教は単なるテキストの講解に終わってはならないと警告して、次のように述べるのです。
      「かくして説教の基礎となるテキストは、その真の福音的性質、すなわち使信の性質を留めるように取り扱われるべきです。」
      「この目的のために貴い助けとなるものは、教会暦の前後関係のうちにあるこれらのテキストの配列であります。」
      「事実、聖書から選ばれたテキストを順序をたてて配列している教会暦は、使信としての福音の性質を非常によく証ししております。」
      私はそれまでの、自分の手探り状態でのペリコーペ利用のおかげで、古くからルター派の教会が使用して来た教会暦と聖書日課に関するニグレンの説明を、直ちに理解することが出来ました。 このニグレンの著書を読んだ他の読者たちの中で、いったいどれだけの人がペリコーペというものの大きな意義を理解したでしょうか。 何年も聖書日課に実際に取り組んで悪戦苦闘して来た人でなければ、それを真に理解することは出来ないだろうと、私は思いました。
      最後に、ニグレンの決定的な言葉 ・・・・・
      「自分が勝手に選んだテキストによって説教する人は、何の苦もなく、毎日曜その好みに従って説教するようになります。」
      「教会暦の順序に現れたテキストの選択によって説教する人は − − そして本当にそのテキストによって説教する人は、キリストに関する福音を説教します。」
      教会暦にも、それに従って作られた聖書日課にも、十分に価値ある伝統という教会の遺産がある !! ということを、私は理解しました。
      「ただ問題となるのは、この価値の最も深い根底が理解されているかどうかということです。」
      その通り ! 従来の日本の国の教会では、ほとんど教会暦というものに無知であり、それに関する適切な解説書というものも存在していませんでした。

5.
      ニグレンの著書によると、彼の母国スエーデンの教会の礼拝式文には、その冒頭に次のように書かれているというのです。
      「教会の聖暦において、教会員はキリストにおける神の贖罪の行為を循環して経験するのである。 このキリスト教暦を作るのに、各時代が貢献して来た。 それは多くの時代の働きによってなされた尊い芸術品である。」
      私はまだ “なんとなく” 程度とはいえ、その価値の大きさに気づき始めていた教会暦と聖書日課を、これからも自分の説教テキストとして用い続ける決意を固めたのでした。 こういう作業は、たとえ暗中模索であっても、実際にある程度の年数実行し続けてみると、初めてその価値の一端に触れることが出来るものです。
      当時の日本で、教団として教会暦を採用しているルーテル教会で、実際に語られた説教に基づく 「教会暦による説教集」 のようなものが出版されていて、私は藁をもつかむ気持ちで読んでみましたが、参考になりませんでした。 確かに日課表に従った聖書テキストで説教が作られている。 しかしそこには、教会暦の流れというものへの認識も関心も、ほとんど全く見られなかったからです。

6.
      皆さん経験しておられるように、日本の諸教派の教会でもそれぞれいろんな 「聖書日課表」 があって、日曜学校での説教のテキスト用であったり、信者個人の日々の学びのために使われています。
      「礼拝と音楽」 という季刊誌にもこれに類するものが解説付きで掲載されていて、日基教団の一部の教会の礼拝で利用されているようですが、あくまでも一委員会の私案のようなもので、公式なものではありません。 つまりそれらはみな、それぞれの作成を依頼された委員たちによる、いわば思いつきに近い 「聖書日課表」 なのです。 並べられた聖書テキストの選択や配列も、無作為によるシャッフルに近いと言っても、あながち間違っていないようなのです。
      スエーデンの教会の礼拝式文で、 「このキリスト教暦を作るのに、各時代が貢献して来た」 と述べられているような、歴史的伝統的 「教会暦と聖書日課」 への深い尊敬と理解など、誰も知らないし教えてもくれない !!
      しかし私が実際に、古くからの教会の伝統的なペリコーペ(日課表)を長期間使用して、暗中模索を通して初めてその一端に触れた教会暦というものの価値は、非常に大きなものでした。

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