主の祈り

1.
主の祈り
      天におられるわたしたちの父よ、
      み名が聖とされますように。
      み国が来ますように。
      みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
      わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
      わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
      わたしたちを誘惑におちいらせず、
      悪からお救いください。
副 文
      ( ・・・・・ わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。)
      国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。

      これは、現在日本のカトリック教会のミサで使用されている 「主の祈り」 の概要です。

2.
      「主の祈り」 は、福音書ではマタイとルカに書かれていますが、ルカの方が簡素で、マタイにあるものの方が教会で使われているものに近い形です。
      また、用語上の違いとして目に付くのは、下記の部分です。
      「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタ6:12)
      「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(ルカ11:4)

      教会で祈るときの日本語の主の祈りでは、昔も今も、「負い目」 を使わずに、「罪」 に統一しています。 プロテスタントの教会で一般に使用されている文語の主の祈りでも、またカトリックと聖公会で現在使用されている口語の主の祈りでも、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」 「わたしたちも人をゆるします」 となっています。
      プロテスタントの一部の教会では、日本キリスト教協議会(NCC)統一訳の主の祈りが使われていますが、そこではマタイ福音書に合わせて、「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから」 となっています。

3.
      教会では早くから、主の祈りの最後に、「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。アーメン。」  を付けて祈っていたようです。
      ギリシア語写本の中には、マタイ福音書の主の祈りにこの部分の付いたものが存在しますが、それは恐らく四・五世紀頃に後から挿入されたもので、信頼出来る本来の写本とは考えられていません。  (現行の我が国の聖書では、新改訳聖書だけが、括弧付きでこの部分を訳出しています。)

      「国」 とは、言うまでもなく 「神の国」 のことです。  「力と栄光」 という言葉は、マコ8:38-9:1, 13:26 などの関連で理解するのが適切でしょう。
      このように 「神の国」 は、“来ますように” という教会の祈りの対象であります。 決して、人間が地上に建設する理想の社会のようなものではありません。

4.
      我が国におけるプロテスタント諸派の多くの教会では、「主の祈り」 の使い方に特段の定めがないようです。 礼拝の中で、説教の前後のどこかで祈る教会が多いようですが、礼拝以外でもいろいろな信者の集まりで、開会や閉会の際に一同で唱えたりするのが普通です。
      ある意味で、どのような機会にもそれを禁じる理由はありませんが、未信者や求道者にも − − 意味を説明せずに − − 初めから一緒に唱えさせることによって、一般的に教会全体がこの祈りの本来の意味に無関心になってしまっている傾向が見られます。

      歴史的には四・五世紀頃から、 「主の祈り」 はミサにおける交わりの儀(会食)の前に祈られるようになりました。 その動機は、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」 にあって、この会食によって一つになる民が神の国の会食を先取りすることへの願いと理解されたからです。
      当時の教父たちによる 「主の祈り」 の解説の大部分は、洗礼志願者と新来者に向けられたものであったという理由がそこにあります。

5.
      カトリック儀式書 「成人のキリスト教入信式」 では、求道者のための入信の第一段階を、「入門式」 で始めるようになっています。
      この 「入門式」 の中で、次のように述べて 「主の祈りの授与」 が行われます。
      「この祈りは古代から、神の子どもとされた人々の祈りであって、将来、感謝の祭儀(ミサ)で信者とともに唱えるものである。」
      つまり 「主の祈り」 は、人が入信の秘跡である洗礼と堅信によって信者の共同体に受け入れられたとき、初めて本当に意味を持つようになる祈りなのです。
      ちなみに、入信の第二段階である 「洗礼志願式」 では、「信条の授与」 が行われます。

      このように、「主の祈り」 も 「信条」 も、基本的にはミサ(礼拝)と結びつけて理解するべきものであることが分かります。 決して、他の場所や機会に祈ったり唱えたりしてはいけない、という意味ではありませんが。

6.
      「地上の典礼において、われわれは天上の典礼を前もって味わってこれに参加している。」(典礼憲章 8)
      「わたしたちの救い主は、引き渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の犠牲を制定されました。 それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託すためでした。 すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越のうたげです。」(カテキズム 1323、典礼憲章 47、ミサ総則 前文 2)
      ミサの後半部分である感謝の典礼の中で、「主の祈り」 は奉献文(感謝の祈り)と聖体拝領(コムニオ)との間に置かれて、聖体拝領によって先取りされる神の国の会食への招きとなります。(カテキズム 2770)
      カトリック教会の典礼書では、ここで、 「 ・・・・・ わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。アーメン。」 という副文が加えられています。

      「主の祈り」 の終末的性格が、このようなミサの中での配置によっても古くから明確にされていたことを、私たちは再認識しようではありませんか。

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