信仰宣言とカテキズム

1.
      私たちがキリスト教信仰を、「わたしは信じます」 と宣言するとき、それは切り離された個人が勝手に、ある独自の主張をしているのではありません。 およそ 「信仰の宣言」 というものは、代々の教会、代々の時代の信者たちと共にあるものであって、そのような歴史的つながりの中で守られ続けて来た遺産なのです。
      ですから 「ローマ儀式書」 では、洗礼の司式者は 「あなたは神の教会に何を求めますか」 と尋ね、洗礼志願者は先ず 「信仰を求めます」 と答えることになっています。(カテキズム 168)  つまりすべてのキリスト者は、教会と共に、教会に結ばれて、心から 「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」 と公言するのです。

2.
      主日のミサでは必ず、信者一同で 「信仰宣言」 を唱和します。 それはミサを捧げるこの群れが、代々の、そして全世界の教会との連帯関係の中にあって、キリストの一つの体である全体教会を構成しているという宣言に他なりません。
      第二バチカン公会議の公文書は、歴史を通してカトリック教会が守って来た 「主からゆだねられた信仰の遺産」 の、現代における表明であります。 それは教会にとって 「何が正しい信仰かという基準」 を、現代の言葉で述べ直したものでありますが、決して時代と共に変化した新しい基準というようなものではありません。 教会の信仰のよりどころは、根本的には聖伝と聖書であり、代々の教会はそこから使徒たちにゆだねられたキリストの啓示を聞き、これを信じ、さらに後の時代へと伝えて来たのです。

3.
      このような 「ゆだねられた信仰の遺産」 とは別に、使徒たちが伝えたことに加えて、何らかの新しい啓示の存在を認めることを、歴史の教会は明確に拒否して来ました。
      「われわれの主イエスの栄えある再臨までは、もはやいかなる新しい公的啓示も期待すべきではない。」(神の啓示に関する教義憲章 4、教会憲章 25 参照)
      教会の公式な諸信条や信仰宣言的文書から離れて、勝手に個人がいろいろな 「自分の信仰、自分の福音」 をどんなに主張しても、それはいつまでたっても 「教会の信仰」 とはなり得ません。 すべての信仰者にとって、聖伝や聖書に、諸信条や第二バチカン公会議の公文書の記述に、アーメンと告白出来る 「信仰の言葉」 だけが、本当に意味ある言葉なのです。

4.
      このような第二バチカン公会議の意向に基づいて、現行のカトリック教会のカテキズムが正式に公布されました。 これは現代の教会における司牧と宣教、また教理的訓練のための公的な指針であり、それによって教会内外の異端や異説を退けることを目的としています。
      したがってカトリック教会の信者であるとは、このような公文書とカテキズムに表明されている信仰を持つことを意味し、すべての信者はその内容に拘束され、責任を持つことが期待されています。 もしその信仰をどうしても受容出来ない場合には、その人はカトリック教会に留まることが出来ないことになります。
      以上のように、カトリック教会の公文書とカテキズムは、カトリック信者にとってそれだけの意味と重みを持っている文書ですが、だからといって単にこれを箇条的に受容していればよいという意味ではありません。 それは信者が信仰の問題で脱線しないように、最低限度の歯止めとなるための、「正しい標準的信仰を示す基準」 にしか過ぎません。
      私たちはそれらを媒介として、聖伝と聖書を通して伝えられて来た福音、使徒たちの宣教に触れて、信仰の真理に達することが求められているのです。

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